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努君的徒然草2014~

元在ベトナム日本語教師で、看護医療系受験予備校講師の努くんの公式ブログ

日々の行動、活動や、思い出話。 日本語教育や国語教育のこと。 鉄道や駅弁の記録。 ベトナムのことなどなど。 徒然に記します。

41.2%に思う、、、EPAによる外国人看護師・介護士国試結果~その1~

 先週末から相次いで、今年度の看護師国家試験、介護士国家試験の合格発表があった。

日本人の受験者も、外国人の受験者も、まず努力が報われた方には「おめでとう」と思うし、今後の活躍を期待したいと思う。

1997年頃から看護医療技術系、福祉系の受験指導に関わってきて、特にベトナム人看護師養成支援事業(日本の厚生労働省・ベトナムの保健省の認可事業。以下、「ベト看」と記します)に関わるようになってからは、その結果報告に一喜一憂した時期もあったけれど、「ベト看」が56名のベトナム人看護師を生んで募集を停止し、全員の国家試験受験が終了してから、、、、もう何年だ?

日本人の教え子からは普通に「合格しました」の報告が届いたり、風の噂で合格したと聞いたりするのが当たり前の感覚になっていたので、最近はもっぱらEPA経由の外国人看護師、介護士候補者の合格状況が気になっていた。

看護師の国試の例を挙げれば、その合格率は高い数字で推移しているものの、それでも100%というわけにはいかない。医療・看護の分野は日進月歩ということもあり、どうしても養成校(看護専門学校等)を留年してしまったり、過年度卒業生の立場(要するに不合格による再受験)だったりすると、「習った知識を越えたレベルで出題される」というのが現実であり、厳しいと聞いている。また、進学課程(准看護師の立場で国家資格の取得を目指す学校)の学生さんだと、勤務と並行しての学校の勉強、、、、ようするに卒業要件を満たすことと、国家試験の受験勉強が同時進行になるわけで、経験したこともない部外者の僕は「大変なんだろうなあ」と思うことしかできないのではあるが、、、、。

東京の西の端にある都立看護専門学校にまだ進学課程があった頃に、卒業式に出席したことがある。式典の最後に卒業生が自分たちで選んだ楽曲を合唱するというのが、戴帽式における「戴帽式賛歌」と並んで定番であり、感動も最高潮に達するのであるが、同席した「ベト看」の事務局長と、支援病院の方と「進学課程の学生の方が、思いが強いみたいだねえ」「苦労という意味では、想像を絶する苦労だったんでしょうしね」「働きながら5年ぐらいかかってここまでたどり着いたんだよねえ」と頷き合ったものだ。もちろん、3年課程の学生さんより進学課程の学生さんの方が大変だという比較の問題ではないのだけど、「第三者からみたら、そう見えた」という話である。うん、初めて「ベト看」の学生の戴帽式に出席したときの「抱きしめたい」と、あの時の「世界に一つだけの花」はよかった。

 

話が逸れた。

 

最近、「EPAによる外国人看護師、介護士について話を聞きたい」と連絡をいただくことがある。同時に、「EPAって何ですか?」という質問にずっこけることも少なくない。大抵の場合お話しすることは同じで、「あの、看護師や介護士だけがEPAじゃないですよ」という話と、「EPAによる看護師、介護士だけが、外国人看護師、介護士じゃないですよ」という話の2点で終わってしまうは、ちょいとばかし残念である。それだけなら「ググれば~」と言いたいんだけどね(笑)

インドネシアとの2国間経済連携協定(EPA)による看護師・介護士候補者の受け入れが始まったのが2008年(平成20年)、フィリピンが2009年、ベトナムが2014年(平成26年)からなんだけど、そのシステムはあくまでも日本とその当事国との「経済連携協定」に基づいたものなので、国ごとに微妙に要件が異なる。大きな特徴的な違いは、協定上の日本語教育の期間の長さと、日本語能力試験の最低要件だ。

そして、ベトナムからは、既に書いた「ベト看」(ベトナム人看護師養成支援事業)で56名のベトナム人看護師が誕生していたということである。

 

インドネシア・フィリピンがEPA交渉の遡上に載りだしたころは、ちょうど「ベト看」の1期生が日本の看護専門学校を卒業して国家試験に一発合格し、4期生、5期生が国立大学の医学部保健学科に進学者をだし、母性看護学(助産学)専攻者も出たころ。僕は直接的に日本語教育に関わったわけでも、看護学を専門にしているわけでもないのだけど、いろいろな方から日本語教育の内容策定についての意見を求められた。僕レベルでも「ああ、またですか、、、」だったから、事務局は大変だったとは思う。

当時はNHKの「クローズアップ現代」などでEPAによる看護師、介護士受け入れ案件が盛んに取りあげられた。ある番組で、僕も知っているある大手の日本語学校の校長が「フィリピンの人たちの語学学習能力は素晴らしいですからね。2か月もあれば大丈夫です」と豪語していて、開いた口がふさがらなかったビックリしたことがある。そして日本語教育の著名な方から「3か月で日本に入れる」という素案に意見を求められたので、「僕の経験では無理だと思います」と返信したら、それ以降何も連絡がなかった。そして、「6か月の日本語教育で、日本語能力試験N5以上」という最低要件が生まれ、その後の国家試験合格率の低迷は残念な限りであった。

ただ、僕がどう思っていても、そういう協定に基づいて日本にやってきたフィリピン人、インドネシア人の看護師、介護士候補者のご本人たちと、受け入れてくださった施設さん、病院さん、法人さんが真摯に向き合ってきたのは事実であるし、実際、キチンと結果を出してきている法人さんも知っている。同時に、なにやら暗躍している日本語教育業界の人びとも少なくないのが残念であるし、逆に陰に日向に真摯に支援していらっしゃる人びとが少なくないこともまた事実である。

 

そんな経緯があって、ここ数年のインドネシア・フィリピンの国家試験の合格実績には関心を抱いてきたのであるが、2010年にベトナム・ダナンの看護系大学(当時は短期大学)と、日本の中部地方にある社会福祉法人さんが提携して「日本語ー介護クラス」を創設するというニュースが飛び込んできた。そして、「日本語教師、誰が行くんだろう、、、、」と対岸の火事を決め込んでいたら、紆余曲折あって僕が行くことになった。まだ、日本とベトナムのEPA交渉が難航していた時期である。

このクラスは、現役の看護学生のクラス、卒業生のクラス、それぞれに10か月500時間の日本語教育を行い、日本語能力試験N3レベルを取得した上で、日本人の介護教師(ケアマネージャー等)を派遣して、日本語で「日本式介護」を学ぶという、先駆的な事業であった。まだ、EPAによるベトナム人看護師・介護士候補者の派遣に関する交渉は本格化しておらず、入れたい外務省と、入れたくない厚生労働省という構図には薄々気づいていたものの、近い将来あり得ることとして取り組む、、、、「これ、失敗できない」という気負いと悲壮感の中で赴任することになった。

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という思い出話の延長戦で、今回の国試の話を書きたいんだけど、その前提の話として、、、、、、 

看護師は来日1年目から国家試験を受験できるのであるが、ベトナムからの1期生、昨年は1名が合格、今年は14名が合格したという、幸先の良いスタートである。人数では分母が少ないのだから単純な比較にならないのだけど、合格率で言えば、ベトナムが41.2%、インドネシアが5.4%、フィリピンが11.5%で、ベトナムが最も高いという結果である。

www.viet-jo.com

この記事、「初のベトナム人看護師が誕生」とあるが、あくまでも「EPAによるベトナム人の、、、」である。「ベト看」によるベトナム人看護師は既に60名近く誕生しているし、保健師助産師看護師法(保助看法)に基づいて国家試験受験資格を得て看護師になっているベトナムにルーツを持つ看護師は多数存在している。これはベトナム人に限ったことではない。

だから、僕は「EPAによる外国人~」という括りではなく、「外国にルーツを持つ~」という括りで考えるべきだと、常々思っているわけで、前述した「看護師や介護士だけがEPAじゃないですよ」という話と、「EPAによる看護師、介護士だけが、外国人看護師、介護士じゃないですよ」という話に集約されてしまうやりとりに、ここ最近ちょいとばかし食傷気味なのである。

まあ、現行の入国管理法では「介護士国家試験」に合格しても、「介護」の在留VISAは存在しないので、有効なVISAを持つ日本在留者以外は「EPA経由でないと介護士として働く事ができない」という現実もあるのだが、、、、、この件はVISAができますな。

【続きは、次回。】 

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東京ー新大阪、0系「ひかり」3時間10分、210㎞の思いで

 東海道新幹線の最高速度が23年ぶりに更新されて、285㎞になってから3月14日で1年になる、、、らしい。最高速度が何㎞かなんて気にしなくなって、どれくらい経つだろう。

母親の実家がある大阪と、東京を年に何度も往復していたので、1966年7月に生まれ、生後数日で新幹線に乗った、、、らしい。もちろん記憶にはない。

東海道新幹線、東京ー新大阪が開通したのは1964年10月1日のことで、東京オリンピック開幕に向かって突貫工事の結果「間に合った」ということらしい。

そこで、路盤が安定するまでの1年間は基本的に160㎞に押さえて運転していた、、、らしい。

  • 運転開始    営業運転最高速度       東京ー新大阪の最速所要時間
  • 1964年10月1日 210㎞(一部区間で160㎞制限) 4時間

           ★この210㎞は、遅延時の回復運転の時のみ

  • 1965年10月1日 210㎞(制限解除)       3時間10分

僕の記憶の中の「思い出」として東海道新幹線はこの210㎞、3時間10分の「ひかり号」である。

  • 1985年3月   210㎞             3時間8分
  • 1986年11月  220㎞(100系運転開始)     2時間56分
  • 1988年3月   220㎞             2時間49分
  • 1992年3月14日 270㎞(300系のぞみ号運転開始)2時間30分
  • 2007年7月   270㎞(N700系の登場)     2時間25分
  • 2015年3月14日 285㎞             2時間22分

この最高速度はあくまでも「東海道新幹線」区間内での話であって、その延長線上の山陽新幹線では1989年から230㎞、1993年から270㎞、1997年には500系で300㎞運転が始まった。なんでそうなったのかと言えば意外と簡単な話で、「東海道新幹線はカーブがキツかったから」というのは有名な話。それを避けるために、山陽新幹線の岡山から先の博多延伸の時にはトンネルの多様で「モグラ新幹線」なんてあだ名されたものだ(これはよく覚えてるなあ)

東海道新幹線内の最大半径2,500mのカーブを通過できる最高速度はN700系を使った270㎞だったのだそうだ。

そしてN700Aの量産化で、いよいよ285㎞運転にこぎ着けたと言うことだ。

そういえば、300系で「のぞみ号」の運転が始まったとき、当初は通過だった名古屋を最徐行で通過してたなあ。あの駅、カーブがキツいですからね。

 

さてと、先週の話なんだけど、東京・国分寺市光町、「ひかりプラザ」にある「新幹線資料館・鉄道展示室」を訪ねた。夕方から用事が入っていたのだけど、思いがけずちょっと早くに他の用事が終わってしまったので、さてどうしようかと。そこでふと、東海道新幹線の最高速度の話を思い出したのだ。

新幹線資料館・鉄道展示室(ひかりプラザ内)|国分寺市

一瞬、(旧)武蔵野郷土館、現在の「江戸東京たてもの園」に行こうかと思ったんだけど、あそこに行くと時間架かりそうだったんで(笑)

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【951-1系・1969年に2両製造された試験電車。1974年に形式消滅、1980年に廃車】

この電車、1972年に正式開業前の山陽新幹線(開業時に250㎞運転を目指していた、、、らしい)新神戸ー西明石間で286㎞の当時の世界最高記録を達成している。(相生ー姫路間という説もあるけど、検証の術を持たないので、詳細不明)

つまり、、、、試験運転の最高速度が280㎞を記録してから、45年近く経ってようやく営業運転での最高速度が285㎞になったと言うことだ。

この子、初代新幹線の「0系」に似ているのだけど、鼻がやや長い。今回初めて運転室に入ったんだけど、高所恐怖症の僕には運転台の高さは少々怖かった(笑)

廃車後は、国分寺市内の「鉄道総合技術研究所」に引き取られて、1991年に国分寺市に譲渡、現在の状態で展示されている。

鉄道博物館などに行けばシミュレーションで体験できるんだろうけど、「夢の超特急」の運転時の「体感速度」ってどんな感じなんでしょうね。最近までJR東海で新幹線の運転手をしていた教え子がいるんだけど、、、、、一度飲みながら思い出話でも聞きたいと思っている。

あ、それで思い出したんだけど、以前に勤めていた某私立高校の理事長が、旧国鉄で「リニアモーターカー」が500㎞を越えたときの技術責任者だったそうだ。その先生に当時の体験をお聞きしたときに、こんなことを言っていた。

「技術的にも、理論的にも500㎞を出せることはわかっていました。ただ、全長7㎞しかない実験線で、500㎞を確実に記録して安全に停止させなければならない。事故でも起こせば、そのままリニア計画が頓挫してしまう。それだけは避けなければならない。500㎞出すことよりも、7㎞で停めることに神経を使いました」と。

1979年12月21日に宮崎の実験線でML500系を使って達成された「無人走行517㎞」の記録は、山梨実験線が完成した1997年まで破られなかったのだそうだ。

 

まあ、中央リニア新幹線が実現するまで元気でいられるのか、、、体感できるのかわからないけど、体験はしてみたいなあ。できれば、大阪まで延伸後にね。

 

新幹線網が整備され、いよいよ北海道から九州(鹿児島)まで2回乗り換えれば新幹線だけで日本列島縦断できるようになるわけだけど、、、、、いちど位は新幹線で「東京駅通過」ってのをやってみたいなと言うのは、幼い日からの思いではある。

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【布袋様への道】松姫通りをマッピーが行く?【七福神、その7】

世の中「ゆるキャラ」 が大はやり。地元・八王子も御多分に漏れず、

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松姫マッピー(世界一カワイイゆるキャラ) | 八王子まちナビ

八王子商工会議所の女性グループが設定したらしい。

iso-labo.com

他にもいろいろ居るんだって(笑)

その中でも、この「松姫マッピー」が、本日の主役となる(笑)

さて、八王子・七福神めぐりの続きである。本郷横丁の交差点で甲州街道(国道20号線)を越え、南へ直進する。

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交差点の角には、なぜか群馬銀行があるのだけど、なんで八王子に群銀なのかは不明。コジツケで関係を考えれば、「絹の道」へと続く、生糸産地でのつながりか。群馬銀行の前に「松姫通り」の道路標識がある。いつの間に、こんな通りの名前がついたんだ?

問題は、、、、「松姫通り」というネーミングなんだけど、ちょっと考察。

 

松姫という人は、八王子の女性の中では最も有名だと言っても過言ではない。(ユーミン、、、荒井、いや、松任谷由実は除く)今向かっている信松院の開基が松姫尼。墓所も信松院にある。

この女性、武田信玄の娘さんなのだが、織田信長に気に入られ、長男・織田信忠と婚約。典型的な政略結婚なのだが、会ったこともない二人は、今風にいう遠距離恋愛で手紙のやり取りをしながら愛を育んでいたらしい。ところが、、、、、

そもそも長篠の戦(天正3年・1575年)で織田信長・徳川家康の連合軍に敗れた武田勝頼軍。武田家はこりゃたまらんと、越後の上杉家や相模の北条家と同盟を組むことになる。これが、松姫のその後の数奇な運命を左右することになる。

まず、妹の菊姫が上杉景勝の正室として迎えられる。政略結婚とはいえ、彼女はどうやら幸せな人生だったようなのだけど、、、、、姉の松姫はねえ。

美濃を攻略した織田信長は徳川家康との同盟を組んで「上洛」京へ上る準備を始める。自動的に背後の守りということで、甲州の上杉との同盟が必要。はい!政略結婚でございます。元亀3年(1572年)まだ7歳だった松姫は、11歳の織田信忠と婚約。

ところが、早くも翌年、西に向かった武田信玄と徳川家康が対立、三方ヶ原の戦いでは織田信長が徳川家康に援軍を送り、あえなく織田・武田同盟は破談、婚約も破棄、、、、という説と、遠距離恋愛はやはりうまくいかず、その時すでに婚約は破棄されていたという説とがあるようだ。

更に翌年、父・武田信玄があっけなく世を去る。こうして、後ろ盾が全くいない状態になってしまったんですな、マッピー、、、、じゃなかった松姫。

兄・仁科盛信の高遠城(長野県伊那市)に身を寄せていたところ、嘗ての婚約者・織田信忠を大将とする武田討伐軍が甲斐・甲州に侵攻。松姫は兄の娘らを連れて甲州を抜け、現在の八王子市恩方の金照庵に身を隠すことになる。

この織田の甲斐侵攻で武田家は滅亡、さらに、、、、わずか3カ月後に織田信長・信忠親子も本能寺の変であえなく散ってしまったのである。

この間、まだ松姫に恋心を寄せていた信忠が迎えに来るという知らせが来て、松姫が甲州側まで駆けつけたが本人が来なかったという説もあるのだが、定かではない。定かではないが、その後の政変(本能寺の変)を考えると、会えなくてよかったんじゃないのかなあ。

松姫が身を隠していた金照庵は、要するに嘗て武田氏と同盟を組んでいた北条氏のお膝元。多少の庇護はあったのであろうけれども、、、、、今度は豊臣秀吉の小田原侵攻が始まる。北条氏の出城である八王子城、つまり甲州口の最後の拠点である。前田利家、更に嘗て「ともだちのともだちは。みなともだち」で武田氏と同じように同盟を組んでいたはずの上杉まで軍勢を送り込んできた。しかも、城主・北条氏照は「小田原評定」に出かけていて留守。八王子落城。その落城悲話は、残酷極まりない。そして「小田原評定」の結果、小田原城は無血開城。北条氏は滅亡。

この小田原攻めで、豊臣秀吉が徳川家康を「連れ小便」に誘い、「関東を差し上げる」といった話は有名である。その結果、江戸、今日の東京があるわけだ。

失意の松姫は、22歳の時に移り住んでいた同じ恩方の「心源院」というお寺から、出家して八王子市台町の御所水の草庵に移り住んだという。ここが、現在の信松院である。

さあ、マッピーとともに、布袋様と松姫様が待つ信松院への道を急ごう。 

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この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです

往時の信松院へのメインストリートからは、通りが一本ずれてるんですけどね。まあ、いいや(笑)

さて、この松姫通り、僕が高校生の頃はもっと細い道で、そう、例の「わかめ先輩」もこの道を歩いて通学していた記憶がある。僕が高校を卒業したころに、先輩の家で先輩の短大入学のお祝いと、高校を卒業したばかりの僕と、もうひとり先輩がかわいがっていた女の子(僕の同級生)を呼んで卒業祝いのパーティを開いてくれたことがあった。そうだよ、この辺りだ。

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この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです

右が1985年ごろ、当時の地形図。甲州街道と道の太さを比べればよくわかる。一方通行だったような気もするんだけど、記憶は定かでない。

特に踏切のあたりの変貌は、驚くばかりだ。

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 JR中央線を地下で潜って、立体交差。ふ〜む、、、、小さな踏切だったんだけどな。

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 前方の三角屋根が「八王子市民体育館」バドミントンの試合などで、中学、高校時代の懐かしい場所だ。

地元・八王子の町は中央線によって南北に分断されている。また北側には浅川が東西を貫いているので、中央線から浅川の間の細長い地域から近代化が始まったのだ。その結果、中央線の各駅は南北自由通路ができるのが遅れ、各踏切りを迂回せねばならず、鉄道も車も人も通行量が増えるにつれて「開かずの踏切」問題が多くなった。浅川の方も同じことで、橋の数が少なかったころは朝夕渋滞が激しかった。

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 へ〜、地下で立体交差なんだね〜。

僕は電車が来ないかなと思ってしばし佇んでいたんだけど、年配の女性が「信松院さんにお参りどすか?すぐ、そこですぅ。」な、なぜに京ことば?(笑)

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ホーム・ゲッツーの思い出 〜背番号5の「はじめ」に捧げる〜

草野球でなかなかできないプレーといえば、僕は経験的に2つあると思う。

ひとつは、柵越えのホームラン。そしてもうひとつは、ゲッツー。ダブルプレーである。

ランニングホームランは、まあよくある。グランドの状態にもよるし、守備がお粗末で結局ホームランという経験は、僕にもある。

でも、ダブルプレーは、走者の暴走とか、守備側の「結果オーライ」のエラーが絡んでという、偶然のなせる業というのが大抵の場合であって、ピシッと決まるゲッツーは、まず成立しない。

だって、そんなの練習してないと決まらないもの!(笑)

早朝野球とか、連盟に登録して、頑張って練習してるチームならともかく、僕たちは集まって野球がしたかっただけ、その後飲みたかっただけ、だったんだから(笑)

僕たちの草野球チームは「ナインズ」正式には「ナインストーリーズ」といった。

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もうお分かりであろう。

スペル、間違うとるやん!(笑)

いや、それは良いんだ。とにかく、最低でも9人集まったら、野球しようと。その、ひとりひとりの物語があるはずだと。

チーム結成の秘話は、詳しくはまたの機会にと思うが、そもそも、僕と、後にチームのキャプテンとなる「悪友という名の親友」が、大学2年時の体育の授業のソフトボールで意気投合し、もちろん他にも同志がいて、4年時の春に学友会(自治会みたいなもの)主催の「新入生歓迎スポーツ大会」のソフトボールに「中文4年チーム」としてエントリーしたことが、きっかけである。中文というのは文学部中国語中国文学科の略というか、母校内での呼び名だ。その時、「親友という名の悪友」ん?逆だ!まあ、いいや(笑)彼のサークルの後輩の女の子が彼を応援に来て、その彼女が後にマネージャーとなるのであった。

その後、「悪友という名の親友」の周囲の人々を中心に人が集まりだし、まずはユニホームが作成されたのだ(笑)

記念すべき初試合は、1993年8月、東京・立川公園球場での歴史的大敗であったと、僕のホームページには記録されている。

草野球チーム・ナインズの部屋

そして、その1回の表、記念すべき先頭バッターは三振に倒れたと、僕の黒歴史として記憶の彼方に追放されている(笑)

 

さて、ゲッツーの話に戻る。

正確にはいつの試合、、、なのかは記憶が定かではない。ただ、もう15年以上前の話であることは間違いないだろう。場所は、立川公園球場、ナイターだ。この球場、たまにプロ野球の2軍の公式戦があったり、高校野球の予選が行われたりする。外野が広いんだ。一度、軟球なのにまぐれでレフトのフェンスにワンバウンドで当てたことがあるんだけど、それだけで高校の野球部の生徒に自慢できる話だ。それくらい広い。でもね、ここは僕たちのホームグランドだ。サブグランドは多摩川の河川敷球場。

僕は子供のころからクラスの野球チームのキャッチャーで、正直、他のポジションにつくとつまんない。決してうまいわけではない。でも、下手でもない。

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ナインズを始めたころに新調したグラブとミット。僕の物だ。このチームでキャッチャーをやっていて、気持ちよくリードできるボールが2つある。Hくんとの「黄金バッテリー」と勝手に僕は呼んでいるのだけど、彼の高めから落ちてくるカーブ。そして、「悪友という名の親友」のシュートだ。右打者にストライクを先行させて追い込んでから、このシュートで仕留める。「狙って」って空振りが取れる。仮にバットに当たっても、ぼてぼての内野ゴロだ。

結論から言ってしまうと、ホームでフォースアウト(タッチしないでアウトが成立)、一塁転送してゲッツーでチェンジになったのだから、1アウト満塁だった、ということになる。だから僕は、三振に仕留めるか、ボテボテの内野ゴロを打たせたかった。ホームでまずひとつアウトである。

シュートのサインを出すと、「悪友という名の親友」は「またかよ!しつこいなあ!」と内心思っていたはずなのだけど、、、、だって、肘が痛くなるから(笑)うなずいた。その時、サードを前進守備で守っていた「はじめ・背番号5」が突っ込んできたのがチラッと見えた。

〇その時のポジション

 ピッチャー:まこと・悪友という名の親友(背番号⒑)

 キャッチャー:つとむ・僕(背番号24)

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 ファースト:はじめ・肇氏(背番号9)

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 サード:はじめ(背番号5)

このチームには「はじめ」が3人いた。そして、ベンチにはマネージャーの(前出の)育代(いくよ)さんがいた。

三振狙い。バットに当てられてもホームでフォースアウト、あわよくばゲッツー、、、、僕の意図を察したのだろう、はじめが突っ込んできて、ものの見事にボテボテのゴロがはじめの前に転がった。

 

以下、実況放送風に

ピッチャーまこと、「肘が痛いのでシュートを温存したいのは山々なだけど、つとむ君がしつこいんでね〜」と話していましたが、つとむは決め球にしたいので追い込むと要求してきます。まこと、キャッチャーつとむのサインにうなずきました。カウントはツースリーのフルカウント。ここは得意のシュートでしょうか。まこと、セットポジションから左足が上がって、、、、、投げました。サードのはじめが突っ込んでくる。バッター内角のシュートにかろうじて当てたああああ、サード正面のボテボテのゴロ、はじめが捕ってホームへ送球!フォースアウト!キャッチャーつとむ、ファーストへ転送!!!!ファーストのはじめががっちり捕って、アウト!ダブルプレーです!草野球では珍しい、注文通りのダブルプレーが成立しました!これは「ナインズ好プレー大賞」受賞は間違いないでしょう!

 

ポジションで言うと、5-2-3のダブルプレー。ホーム・ゲッツーである。背番号で言うと、5-24-9だ。

実際、キャッチャーから言わせてもらうと難しいのよ、このプレー。だって、捕ってから体ひねって反対方向に、しかも走っているバッター・ランナーに当たらないように一塁に送球せなあかん。

まことの投球がずれてもフォアボール押し出しで1点。打ちとっても、誰かがひとつミスしたら2点入るケース。

いやいや、気分良かったですよ。

ベンチに帰りながら、はじめと「ナイス・キャッチャー」「ナイス・サード」とハイタッチしたことを覚えている。

サイン通り、キャッチャーの思案通りにプレーが決まった心地よさと、夜風の心地よさは忘れることができない。

 

昨年の5月に、僕と、「背番号9、ファーストのはじめ、肇氏」と「思い出話でも」と久しぶりに会って飲んだ。

息子さんに自分の、ナインズのユニホームを着せたり、一緒にキャッチボールをしたりしている様子をfacebookにUPしていたので、同窓会でも、、、となったのだった。

彼は大手の家電会社に勤めていて、2000年の第一次ベトナム赴任の時にウイルスにやられたPCに困り果て、たまたまそのPCの会社に勤める彼にSOSを発信したこともあった。そんな思い出と、チームの思い出と、もちろんバーベキューや飲み会の思い出と、、、、「息子のボール、受けてもらいたいよ!」なんて話も飛び出し、なんといっても「ホームゲッツー」の思い出である。話は尽きず、「悪友という名の親友」を電話で呼び出し、割と近くにいたらしい彼も駆けつけてくれて、大宴会となった。「そんなプレーもあったかなあ」と彼はトボケ、僕とファーストの肇氏は熱く語り合った。その流れで、一度みんなで集まって、それこそ家族連れでもいいから、キャッチボールでもやろうと、、、、、

 

昨日、久しぶりに「悪友という名の親友」から電話があった。午後の早い時間だったので、久しぶりにランチでもというお誘いかな?と思ったのだけど、彼の声はいくらか沈んでいるように聞こえた。

 

「サードの背番号5のはじめ」が旅立ったという知らせだった。

 

彼の闘病については、内々にちらっと、そう、肇氏との同窓会の帰りに耳打ちされていたのだけど、他言無用ということで心のうちに秘めていた。

ご家族だけで見送り、一昨日葬儀を終え、チームの仲間でもある奥様から連絡があったのだそうだ。

 

とりあえず、ファーストのはじめ氏には連絡した。だって、あの「注文通りのゲッツー」を完成させた仲間なのだから。「5-2-3のホーム・ゲッツー」は、ひとり欠けても成立しない。もう、あの場面は二度と戻らないのだと実感している。

 

ファーストのはじめ氏はショックを受けた様子だったが、「僕らが落ち込んでしまっては、一番つらい思いをしたはじめさんが報われないですね」と語り、僕は「そうなのよ。せめて、笑って送ってやりたい」と返した。

逡巡した末に、僕は宝くじを買いに行った。LOTO6である。1点、1回分だけ。200円である。

マークシートの申し込みカードに向かって、僕はあのダブルプレーのシーンを再現した。そのまんまを、その順番でマークした。

 

まこと「10」が投げました。バッター打ちました、はじめ「5」が捕る、バックホームを僕「24」が捕ってフォースアウト、一塁へ転送、はじめ「9」ががっちり捕ってダブルプレー。ベンチでは育ちゃん「19」「4」が手を叩いて喜んでいる。

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どう?完璧でしょ?

「不謹慎だ!」と言うことなかれ。「不謹慎」というのは容易い。でもね、志半ばで苦しんで逝った仲間を、笑顔で送り出したかったんだ。

「ハズレ」たら、かすりもしなかったら、はじめはきっと、いつもの薄笑いを浮かべながら「ま、そんなもんだ」と言うだろう。いや、ハズレでいいんだ。これは、彼を笑って送り出すためのギャグ、ネタだ。もしも、そこそこ換金できたら、みんなで集まってキャッチボールした後に大宴会だ。但し、もう少し暖かくなってからね(笑)

 

お〜い、はじめ!

きつかったな、おつかれさん。でも、いくらなんでも、ちょっと早すぎたぜ。

そっちでは、あまりやんちゃせずに、心やすらかにな。 

また、そっちで野球やろうぜ!

しばらく、みんなが揃うまで待っていてくれ。でも、まだ時間かかるぜ。待ちくたびれてふてくされても、簡単には行けないからな。あ、グランド、立川公園球場の予約はしておいてくれ。ナイターだよ。そうか、家族連れもいるから、昼間の多摩川河川敷の方がいいな。寒い時期はダメだぜ。怪我しちゃうから(笑)

はあ?面倒だぁ?早く着いちまったんだから、それくらいやっといてくれ!

それから、打ち上げの宴会は、まことの家でホームパーティだ。もちろん、料理するのは、はじめだぜ。だって、料理は他の誰もはじめには勝てないんだから。任せた。

 

じゃあ、また、そっちでな。そっちでも、「はじめ、らしく」物語の続きをな。みんなが揃ったら、プレーボールだ。

おつかれ。思い出をありがとう。

 

追伸: 背番号5は、ナインズの第1号「永久欠番」だ。

 

ちなみに、コメント欄が下の方にあります。

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「公文書」の現代文訳に挑む

1988年の春の話である。

3年も浪人して入学した大学で、偶然にも『南化本史記』の研究という大きな事業に巻き込まれた。まだ学問の右も左もわからない、多少漢文読解が得意だという程度の学部1年生である。後に指導教授となる水澤利忠博士が中心となった研究計画が、日本学術振興会の科学研究助成事業(科研費)に採択された、とのことだった。

その後、紆余曲折あって、出版助成を受けた本研究は『史記正義の研究』として世に出ることになった。足掛け7年に及ぶ難事業だった。

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当初はこの『南化本史記』の書入れを一字一字活字に起こし、、、、という気の遠くなような計画だった。

この本は日本に伝わった現存する最古の『史記』とされ、南宋時代の中国から日本へ伝わり、京都の妙心寺の僧・南化が所有し、その後、親交があった直江兼次(上杉家の家臣)が『漢書』『後漢書』などの蔵書とともに譲り受け、米沢藩の藩校で保管されていたものだ。現在は国宝に指定されて千葉県佐倉の国立歴史民族博物館にある。

大学を卒業するころに「これは、もう君が持っていた方が良いから」と、水澤博士に頂いたもの。このページは「太史公自序」(司馬遷の自伝)で各巻を記した理由を説明した箇所である。「南越列伝第五十三」は、今のベトナムにあった南越国に関する記述である。

あ、あった。これだ! ↓ ↓ ↓ ↓

KAKEN - 南化本「史記」の総合的研究(63301062)

史記正義の研究 - 株式会社汲古書院 古典・学術図書出版

僕たち学生が担当した部分は、結局のところ中国の中華書局が出した校点本という活字に起こした本を底本としたので、確実に書き写すことで済んだのだが、「済んだ」と一言で言えるようなお話ではなかったのは事実。とにかく、大変だった。

そもそも、インデックス作りというのは、一字一句の誤字誤植があっても意味をなさない。当時はパーソナルコンピューターが今とは比較にならないくらい普及しておらず、ワープロで漢字が簡単に変換できるわけもなく、全てが手書きの作業であった。あの作業、当時にデータ化できていたら、『史記』の研究はもっともっと飛躍的に進んでいたはずだ。

Windows誕生前夜、まだDOSでパソコンが動いていた時代である。

莫大な量の原稿を取捨選択し、校正をくり返す作業も気の遠くなるような作業であったし、中心となられた先生方のご苦労と根気強さには感服した。書誌学的な学問研究の基礎を叩き込まれたと、今でも感謝している。

この作業が基礎となって、僕の卒業論文、修士論文が生まれることとなる。その時の集計作業も、まだIBM-DOSで動いていた時代のLOTUS1-2-3(表計算ソフト)だった。

データ移行がうまくできず、紙面のデータしか残っていない。

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右の本は、当時参考にして紐解いた「草書の字典」である。たしか、ボロボロになって大学院時代に買い替えたものだ。左のソフトは、単漢字16万字を網羅する、漢字検索・入力ソフトの「今昔文字鏡」漢字の異体字、『康煕字典』の書体から、万葉仮名、甲骨文字、西夏文字、梵字、更にはベトナム漢字チュノムまで収録している。当時こんなソフトがあればねえ、、、、

『史記正義の研究』の印刷を担当された印刷業者さんのご苦労は聞きしに勝り、外字の作成は何万字にも及んだそうだ。

 

さて、こんな思い出話を書く気になったのは、偶然こんな事業に出会ったからである。

昨秋、facebookで偶然再会した中学時代の仲間の投稿を読んでいて、地元・八王子発信で「近代の公文書を現代文に起こすことで、史料を活用するための一次資料」とするプロジェクトがスタートするというのだ。

「南化本史記」の作業でも経験したが、それは「気の遠くなるような作業」になることは間違いない。「一次資料として供する」のならばなおさらのこと、文字校正作業にはには万全を期さなければならない。

映画にもなった三浦しをんさんの小説『舟を編む』で辞書の編纂に16年の歳月と、5校まで校正作業をしたことが描かれている。辞書の完成は、著者にも、編集者にも、名前が載らない大学生の、好事家たちのアルバイト、ボランティアの方たちの影の努力の成果でもある。

「南化本」の時、「アルバイト」のつもりで参加し、途中で逃げ出した挙句に「バイト代」を請求した輩、、、、先輩がいたが、そういう人がいくら手伝ったところで、まともなものにならないのは明白なこと。先生がどのように処理したのかは忘れてしまったけれど、僕たちには「学問の基礎」という何にも代えがたい報酬が今でも残っている。ぜひ、気概を持って取り組んでいただきたいと思うし、何かの形でお手伝いしたいと、正直楽しみにしている。

 

そこで、みなさんにお願いがある。

このプロジェクトを支援するための「クラウドファンディング」が立ち上がっている。

プロジェクトの詳しい内容は、僕が縷々説明するよりもこちらを見ていただいた方が正確だし、わかりやすいので、ぜひ目を通していただきたい。

readyfor.jp

僕がどのように関わるか、まだ具体的には何も決まっていない。でも、そのきっかけとなった友からのメッセージには、、、「陣内、これは陣内の専門分野だ!是非、参加して‼︎」とあった。
日本の近代史は、僕の専門でない。でも、史料・資料の書誌学的な整理という意味では

たしかに気の遠くなるような作業をこなしてきたという自負はある。また「ありがとう!陣内の専門分野なので是非、参加して盛り上げて‼︎」とも頂いている。僕は「もうその気になってる。こちらこそ、ありがとう。」と返信した。

まだ何も決まったわけではないのだけど、ぜひ参加したいと思うし、言われるまでもなく「楽しみ」たいと思う。

皆さんのご支援をお願いします。

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【走大黒天】走り廻って福を授ける大黒様と、「わかめ先輩」の思い出【七福神、その6】

昨日のUP記事では「旧道散歩」なのか「七福神めぐり」なのかわからない状況になってしまったのだが、「八王子・七福神めぐり」の続きである。

現在の位置関係は、こんな感じ。 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓

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①「甲州街道・陣馬街道の道標」、②「八王子千人同心屋敷跡の記念碑」を瞥見して、大黒様がいらっしゃる善龍寺に向かう。

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【走大黒天・健康増進の神様「善龍寺」】

所在地・八王子市元本郷町1-1-9 最寄り駅はJR中央線西八王子駅なんだろうけど、ちょっと離れてきているので、本郷横丁までバス利用が便利かな。秋川街道に入るバスなら、本郷横丁と平岡町の真ん中辺になる。

このお寺、もともとは滝山町、八王子城の出城である滝山城の近くにあり、城主北条氏の氏神であった真言宗の寺院だったらしい。城の機能が八王子城に移るのととも元八王子に一時移転した後、八王子城の落城後にこの地で日蓮宗寺院として改められたらしい。本堂再建の発願をした中興開祖日真聖人が旧本堂跡で、右足を踏み出した「大黒天」を発見、その姿から「走大黒天」と名付けられた、、、と言うことになっているらしい。

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本堂の傍らには、千人同心・増田蔵六の碑。

山門右には「浄行菩薩」、、、、があったはずなのだが、見損なってしまった。これは「洗い地蔵」と呼ばれ、菩薩様に水をかけながら自分の身体の悪いところと同じ部分を「たわし」でこすると、患部の浄化で良くなるのだそうだ。

つまり、、、、健康増進のこのお寺、「浄行菩薩」に会わないと、来た意味ないじゃん!(笑)

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というわけで、これで四寺院の御朱印を頂き、本日の行程はようやく半分を消化したことになる。

次に目指すのは布袋様がいらっしゃる「信松院」秋川街道を南下、甲州街道と交差して南へまっすぐ。直線とは言え今回の行程では一番移動距離が長い。まあ、のんびり歩きましょう。大黒様のように走る必要はない(笑)

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ん?上川霊園行きの西東京バス。このバスは、僕の母校のすぐ手前まで行く。懐かしい!

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逆光で見にくいんだけど、「本郷横丁」のバス停。高校の3年間、ここでバスを乗り換えていたのだ。「今熊行き」「川口経由・五日市行き」この2系統しか母校には行けない。「上川霊園行き」だと、15分ぐらい歩くことになる。

今でこそ母校もスクールバスが出ていて便利になっているが、当時は朝の通学時間帯に八王子方面からは5本、五日市方面からは3本しかなかった路線バス。僕は長房団地からの京王バスで来て、ここで乗り換え、毎朝1本目の今熊行きに乗っていた。1本目は、我が美化委員会の顧問であり、担任以上に僕の自他共に認めるお目付役だった宍戸副校長先生(後の校長)が乗っていたので、試験シーズンを除いて空いていたのだ(笑)

そして、この場所は、一学年先輩の憧れの女性「わかめ先輩」との待ち合わせの場所、、、、バスを同じ時間に待っていただけで、待ち合わせではないけれど(笑)

ちなみに、テレビのサザエさんの「ワカメちゃん」に髪型が似ていたから、ワカメ先輩。彼女とは予備校も同じ所に通ったし、大学も先輩が行きたかった大学に、結果的に僕が入った(笑)また、彼女も美化委員で、宍戸先生から見たら僕たちは「二人でワンセット」だったらしい。

そうそう、彼女が通っていた僕の母校の短期大学部がある「茅ヶ崎キャンパス」に設置されていた情報学部を、半分洒落で受験したことがある。僕が後に入ることになったのは、先輩が行きたかった教育学部が改組された文学部である。埼玉の越谷キャンパス。

受かったけど、、、、もちろん入らなかった(笑)入試の時に、お弁当作ってくれたなあ。違う意味での「記念受験」である。

今、彼女がどうしているのかは、、、知らない。まあ、淡い思い出話だ。

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あったあった。母校の最寄りが「久保橋」たしか、3年生になるタイミングでバス停を移動させて母校の名前になったんだけど、地元住民の苦情で「久保橋」が復活したんだった。その後、校門の脇にバス乗り場が整備されて、急行バスも運行していた時期があったらしい。今はスクールバスの基地になっている。

そうそう、「八日町四丁目」までの定期券なのは、「本郷横丁」までと料金が同じで一番八王子駅に近いバス停だから。本当は反則なんだろうけど、本郷横丁から乗り越すと、たしか10円だか20円だか高かった記憶がある。

さてと、「信松院」へ向かって南下を再開しましょう。信松院では布袋様と一緒に、地元・八王子で一番有名な女性「松姫」様が待っているはず。

【続く】 

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【外伝】八王子・追分の交差点は、高所恐怖症の僕には渡れない!(笑)【七福神、その5】

1月2日に敢行した「八王子七福神めぐり」の記事が、途切れたままになっていた。

 前回はこちら ↓ ↓ ↓ ↓

shibasen.hatenablog.com

更に、外伝もある。 

shibasen.hatenablog.com

 さてと、次の大黒様に向かって歩き出すわけなのだが、、、、

甲州街道沿いの「萌え寺」を出て、追分の交差点に向かう。この交差点は四差路になっていて、西に向かう甲州街道と陣馬街道の分岐点である。そして東を向くと八王子の市街地を抜ける甲州街道と、そのバイパスの分岐点。昔は、、、、僕が小学校4年生ぐらいまでだったと記憶しているのだが、ここから八王子駅前の交差点まで、毎週日曜日は歩行者天国となっていた。両親と一緒にバスでここまで来て、ここから先は僕はローラースケートを履き、両親がのんびり歩く間、行ったり来たりしながら滑ったものだ。まあ、その後の交通量増加、特に狭くて直進できないバイパス沿いの住民への迷惑に配慮して、あっけなく廃止になってしまったのだけど、その後の八王子市街地の商業的没落を考えると、栄枯盛衰の懐かしい思い出ではある。

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追分交差点の手前(甲州街道の高尾方面寄り)の歩道に、こんな道標が残っている。「左 甲州道中 高尾山道」「右 あんげ道」(あんげ道は「案下道」つまり陣馬街道)この道標は文化8年(1811年)に建てられた物なのだが、昭和20年(1945年)8月2日の八王子大空襲で破損、四つに折れてしまったらしい。一部が八王子市郷土資料館に保存されていたのを地元の有志の働きかけで復元したのだそうだ。

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「旧道散歩」の遺構として興味深いばかりではなく、「高尾山信仰」の奥深さをも語るうえで貴重な資料である。

さて、追分交差点から左に折れて、陣馬街道(あんげ道)を少しだけ行くと、、、

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この石碑は「千人同心屋敷跡」の記念碑。この日吉町、千人町界隈に「八王子千人同心」の人々が住んでいたらしい。碑の右の道が陣馬街道。この先に「夕焼け小焼け」の歌碑などもあるのだが、またの機会に。

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この追分交差点、歩行者は歩道橋を渡らなければいけないのだが、僕は高所恐怖症なので渡れない。今は老朽化で付け替え工事中なのだが、旧歩道橋なんて狭いというか細いというか、僕には絶対に渡れない。そこで千人同心屋敷跡の日の前からチョンボして陣馬街道を横断。

ちなみに、この歩道橋の下には、僕が高校3年の自分の誕生日の晩に「自転車窃盗疑惑&無灯火&飲酒運転(あれ?)」容疑で警官二人に連行された交番がある(笑)

もう時効だよね?しかし、、、あのお巡りさんの自転車って、速いよねえ。あっという間に追いつかれた(笑)

 

さて、先を急ごう。

八王子市立第二小学校の前を通って、秋川街道へ。此路は、高校時代の通学バスが通っいた道で、特にこの辺り、バス停で言うと本郷横丁から平岡町の一区間がよく渋滞した。昔は浅川を南北に渡る橋が少なくて、特にこの秋川街道は雨でも降った日には大渋滞を引き起こしていた。そう、八王子市役所の新庁舎と、併設の橋ができるまでは大変だった記憶がある。

僕は自宅からのバスを本郷横丁で学校方面のバスに乗り換えていたのであるが、本郷横丁ー平岡町(橋の手前)まで、渋滞しているときはバスに乗り遅れても、歩けば悠々と追い越して平岡町で乗ることができたのだ。

だから、この道を歩くのは懐かしい。

さてと、間もなくこの秋川街道沿いの「大黒様」に到着である。

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