努君的徒然草2014~

元在ベトナム日本語教師で、看護医療系受験予備校講師の努くんの公式ブログ

日々の行動、活動や、思い出話。 日本語教育や国語教育のこと。 鉄道や駅弁の記録。 ベトナムのことなどなど。 徒然に記します。

旧道散歩、ちょっと考察 第壱回「発端」編

 書きかけの続き物記事が滞っていいることは重々承知しているのだが、この「旧道散歩」は間違いなく、絶賛長期化覚悟のシリーズとなる。(きっぱり)

 

「僕は本当は考古学者になりたかったのだ!」という台詞は、このブログでも何度か使ってきたわけだが、別に日本の考古学に限定しなくても、基本的に歴史は大好きな訳で、そのひとつのきっかけとなったのが、「旧道散歩」であり「旧道散歩」なのである。

 

現在の小学校の学習指導要領がどうなっているのか知らないのだけど、僕が小学生のころは小学校3年の社会科で「地元の市町村」について、4年生で「地元の都道府県」について学んだ。今は「生活科」があるから、だいぶ違うんだろうけど。

 

地元「八王子」は「織物の町」として栄えてきた歴史があり、江戸時代の五街道のひとつである「甲州街道」の宿場町でもあった。東海道や中山道の裏道としての役割や甲州の武田を牽制する意味から軍事的な要衝の役割も有り、「小仏関所」は堅固だったといわれている。

 

ま、八王子駅前が中途半端に再開発されて久しいんだけど、駅前ロータリーにあった「織物の町 八王子」の噴水が無くなったときは、「八王子も終わったな」と、正直思った。

 

なんて難しい話から入ってしまったが、そんなわけで小学校3年の秋の遠足は市内見学だった。高尾山からの縦走コースの終点である、陣馬山の麓にある八王子市立恩方第二小学校は当時の市内の小学校で数少ない木造校舎が残っている学校だった。つまり、現役の小学校が社会科見学の対象だったのだ。

(もう一校は「浅川小学校上長房分校」2006年度まで都内最後の分校として存続し、廃校。その後、保育園として活用されたらしいのだが、今は?後述する旧甲州街道沿いにあるので、いずれ訪ねなくてはならないだろう)

 

そう、教室で蚕を飼い、繭から生糸、、、を採るのは失敗したけど、同級生の家が織物工場で見学に行ったなあ。蚕を飼うには桑の葉が必要なわけだけど、当時の八王子はまだまだ桑の木がたくさん残っていた。畑じゃなくて、道ばたにね。

 

さて、小学校4年の社会では東京都のことを学んだわけだが、武蔵野台地をどう切り開いていったか=水利確保はどうしたのさ?、、、、玉川上水とかね、そんな話がまず記憶にある。関東ローム層が邪魔をして、今の中央線や西武線の沿線は荒野の様だったらしい。それで、国電の中央線(現在のJR中央線)は、中野から立川までなんで直線で線路を敷設できたのね。人がほとんど住んでなかったから?じゃあ、その辺りの甲州街道はどうだったの?

なんてことを疑問に思ったませたガキ(僕)が、小学校4年の夏休みの自由研究に選んだテーマは「甲州街道の研究」だった(笑)

 

僕の蔵書の中に、こんなリーフレットがある。

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奥付を見ると昭和49年(1974年)11月の発行で、八王子の郷土資料館で開催された「甲州道中展」を記念して編纂されたものらしい。「甲州道中展」を見た覚えはないから、郷土資料館に行った時に買い求めたものだろう。

 

目次を見ると、「残っている甲州街道の旧道」という論考があり、著者は岸田林太郎とある。当時、郷土資料館の学芸員だった方で、小学校の間は郷土資料館によく通っていたので岸田先生にはかわいがってもらった記憶がある。

 

そう、そうそうそう、思い出した。5年生になってからだったと思うけど、「甲州街道と甲州道中の違いは、なに?」と悩み、郷土資料館に電話で質問したんだ。その時に丁寧に教えてくださったのが岸田先生で、「君はよく勉強していますねえ。小学校はどこですか?」「船田小学校です」「そう、N校長先生だね。担任の先生は?」「M先生です」「ああ、M先生のクラスですか。そう、良い先生ですね。よく知っていますよ。よろしく伝えてください。がんばってね」

もうそれだけで、僕は歴史学者になったつもりになっていた(笑)

小学校5,6年の担任のM先生は、教師としても対外的にも力のある方で、先生の母校の大学に行きたいがために、僕は3年も浪人することになる、、、、そ、それは自分の責任(笑)

たしか、五月の連休は八王子に残っている旧道を、自転車で駆け巡った覚えがある。一部、親父も一緒だった気もするが、、、、、

今でも道そのものが残っている部分が、何カ所かある。自宅から歩いて行ける場所(浅川の大和田橋のあたりとか、八王子駅からほど近い新町のあたり、確か一里塚の記念碑があったはず)にもある。あとは、並木町、東浅川、裏高尾か。

まあ、甲州街道の「旧道」も、いずれ訪れてみようと思うのだが、、、、、その前にだ(笑)

 

「八王子」「織物の町」「蚕」「絹糸」と来れば、やはり「絹の道」の話に触れなければならない。

「絹の道・シルクロード」というと「中国・西域・古代ローマ」などと連想し、NHKの「シルクロードのテーマ」が聞こえてきたりするのだけど、八王子市民は(少なくとも我々「オヤジ世代」は)八王子から横浜へと続く「絹の道」なのである。

簡単にいうと、各地(例えば、現在の青梅や福生、五日市や奥多摩などの近隣の町村だけでなく、甲州や桐生、前橋など)の生糸・絹織物の産地からの荷物は、いったん八王子に集められて江戸に送られた。それが黒船の来航で横浜が開港され、さらに江戸幕府の弱体化も進んでいる時期だから、生糸が日本の最大の輸出品になると、、、、八王子から横浜まで一気に運んでいく方が便利じゃないですか。それで整備されたのが、「浜街道」とか「神奈川往還」と呼ばれた、現在の国道16号線の原型なのだ。

もちろん、他にも道はあったのだろうけど、八王子の八日町交差点(甲州街道)を起点とするこのルートがメインルートだった。

現在も、そのルートの途中に「旧道」が一部史跡化され、資料館もできている。

 

やっと本題に近づいてきた。

そんなわけで、40年経った今でも「旧道」の言葉に反応してしまうのだが、先日スマホのアプリで「東京古い地図」というのを見つけ、早速いじくり回してみたのだ。

そこで、自宅のあたりを検索して出てきたのが、、、、

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スマホアプリ「東京古い地図」より、明治42年測図の1/20000「東京首都」地形図 

右下の二叉路のところが「北野天神」そこから地図の上の方に上がって行くのが、現在の「16号バイパス野猿街道」の旧道。ちょっとした集落なんですねえ。でも少し外れると、、、

「田」田んぼばかり。「北野村」の「野」の字の辺りが、現在の僕の自宅。今は「16号バイパス」が通っているのだが、当時は田んぼの中、、、、今の場所は、、、探さないでね(笑)

 この旧道、現在はところどころ残っている様なのだが拡張され「野猿街道」と呼ばれている。JR八王子駅南口方面に向かうバス通りになっている。

この地図の左端のカーブのあたりが、現在のJR横浜線と京王線が接する踏切のあたり。(この時点では、鉄道は開通前)

 

要するに、「旧道」散策には、、、いい場所に引っ越してきましたねえ。

 

で、今度は「北野天神」から右の方向に向かう。この道は今は昭和30年代からの区画整理で直線だが、当時は田んぼの中の田舎道。でも、現在に照らし合わせれば、この先にはつい最近(2015年3月)まで住んでいた団地がある。 

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 「北野天神」から地図上の右手に進んでいくと、やや右に折れながら川を渡る。これが「湯殿川」を渡る「春日橋」。よく利用したコンビニがあるのが、現在の道でいうと直線の突き当たり。川の方は、もう少し先で「浅川」に合流する地点。この二つの川に挟まれたあたりが、僕が住んでいた団地なのだが、、、、、、

あ、あれ?

「至 八王子驛」「至 横濱」って書いてある!

この「八王子驛」の「驛」は鉄道の八王子駅ではなく、「宿驛」つまり「八王子の宿場

」ですな。これはわかる。

「北野天神」からこの道と分かれて下の方向に向かって行く道は、今の野猿街道。つまり先の方で16号に合流するわけで、旧「浜街道」への短絡道路。更にいくと、いわゆる「史跡絹の道」につながる。これも、わかる。

では、現在の「春日橋」を経て、現在の「長沼公園」を通る「至横浜道」は、何処へ?

【以下、続く】

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