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努君的徒然草2014~

元在ベトナム日本語教師で、看護医療系受験予備校講師の努くんの公式ブログ

日々の行動、活動や、思い出話。 日本語教育や国語教育のこと。 鉄道や駅弁の記録。 ベトナムのことなどなど。 徒然に記します。

離合集散の駅と、甲子園の記憶

国語教育 教師生活 遠征 鉄道 野球 歴史

 「八高線で通勤してるの?イメージできないなあ、、、」とは、僕を2回ベトナムへ派遣してくれたNPOの常務理事の言であるが、、、

八高線、文字通り東京・八王子と群馬の高崎を結ぶ路線であるが、八王子-高麗川(-川越線)の電化に伴って二分割され、八王子と高崎を直通する列車はなくなってしまった。そもそも、全線を乗り通した経験なんて何度もないのだけど、やはり電化以前の気動車時代が懐かしい。

高校時代、バスでまっすぐ帰らずに、わざわざ五日市から拝島に出て、八高線に乗って帰宅したことが何度もある。

 

その八高線の駅の中で、いくつかある好きな駅のひとつがこちら。

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 東飯能駅。

「駅は離合集散の場である」とは、鉄道紀行作家、宮脇俊三さんの名言であるが、離合集散するのは人や荷物ばかりではなく、鉄道の路線もまたしかりである。

JR八高線と、西武池袋線の接続駅。旧国鉄の路線が市街地を避けて通るのはよくあることで、八高線も飯能の市街地を避けている。これは、蒸気機関車時代の煙害を避けるためという説など、理由には諸説あるんだけど正確なことはわからない。

西武池袋線は東飯能を出ると、大きく右に回り込んで飯能の市街地に向かっている、、、のだけど、、、

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反対方面(秩父方面) を見ると、やはり大きくカーブしながら八高線に寄り添うように向かって来て東飯能で離合集散。直ぐに離れて飯能の市街地に向かうわけだ。

八高線の八王子-東飯能の開業が1931年(昭和6年)。西武池袋線の飯能駅開業は八高線よりも古く、旧武蔵野鉄道が1915年(大正4年)飯能から東飯能を経由した秩父方面の延伸は1929年(昭和4年)。但し東飯能に駅を設置したのは2年後の1931年なので、八高線との連絡駅としての設置だったんですな。

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この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。

1920年(大正9年)の地図。1915年(大正4年)に旧武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)が池袋-飯能開業。同時に開業したのが飯能駅。

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この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。

これが八高線開業、西武池袋線延伸後の1930年代の地図。

やっぱりね、西武池袋線は市街地の南端に駅を設置。秩父方面延伸の際は、天覧山があるから西に直進するためには市街地を突き抜けるしかなく、そんなことはできなかったからスイッチバックしてぐるっと市街地を迂回するしかなかった。八高線はそもそも貨物主体の路線(先日から書き始めた「絹の道」の近代化と考えればわかりやすい)だから、八王子方面に直通させるために市街地の東端をかすめて通る。なるほど。

まさに「鉄道の離合集散の場」が東飯能駅なんですな。西武線が先にできていなければ、こっちが飯能駅になってたんでしょう。

 

天覧山の麓に、恩師・水澤博士のご令嬢ご夫妻の自宅があって、1994年の秋だったかな、遊びに行ったことがある。中国旅行に先生をお連れして、その時の旅仲間で秋の休日を楽しんだのだった。その帰りの、まだ八高線の電化前の薄暗い東飯能駅が懐かしい。八高線で帰る仲間と後輩。西武線で帰る僕と後輩。二組に分かれたわけだけど、これは、人の離合集散やね。まだ駅舎が橋上駅になる前で、改札口も西武とJR共同でひとつ。切符の自動販売機は、、、、さすがにあったかな?遮断機もない踏切から眺めた八高線の車両は、キハ35だったかな。写真に撮っておけばよかったなあ。

急カーブを減速しながらぐるっと廻る西武特急レッドアロー「ちちぶ号」と、全席ロングシートの209系電車。僕は、西武の黄色い電車と、八高線の気動車の並びをもう一度見たい気がするなあ。

 

さて、なぜ昨日朝から東飯能に出かけたのかというと、近隣の私立高校で塾対象の入試説明会があったのだ。そして、7年ほど前に非常勤講師として勤めた経験がある高校である。たしか、、、図書館司書の方が病気で休職、司書教諭の免許を持っている国語の先生が図書室に異動して、あいてしまった授業を僕が担当した。

理系の特進クラスの2年生がおもしろいクラスで、熱心に受けてくれたなあ、、、、古文なのに(笑)リハビリ系の学部を目指して浪人したある生徒が、ネットで検索して、ベトナムに赴任していた僕を探し出し、進路相談してきたこともあった。そう、志望理由書と小論文をメールで添削、「遠隔操作」で某私立大学の理学療法学科に合格させたなんて一幕もあった。

そして、極めつけは1年生のあるクラス。野球部員がいっぱい。

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僕を初めて「教え子」が連れて行ってくれた甲子園。この「準優勝」の記念碑の裏側には、当時の懐かしい生徒たちの名前があった。雨の中、のぞき込んじゃいましたよ。

1年の春の選抜の決勝戦で沖縄の高校に惜敗、、、実は惨敗した彼らは、3年の夏にもう一回、予選を勝ち上がって甲子園へ行った。今でも社会人野球で活躍している卒業生もいるようだけど、みんな頑張っていることだろうと思う。

毎年この時期の「入試説明会」ぐらしかこの場所に来ることもないのだけど、久しぶりに感じた「身近な甲子園の記憶」だった。

 

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