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努君的徒然草2014~

元在ベトナム日本語教師で、看護医療系受験予備校講師の努くんの公式ブログ

日々の行動、活動や、思い出話。 日本語教育や国語教育のこと。 鉄道や駅弁の記録。 ベトナムのことなどなど。 徒然に記します。

「旧道散歩、、、ちょっと寄り道 その1」~廃線跡散歩してたら、旧道見つけた~

もう、2週前の日曜日だったか、、、、テレビで大学野球の早慶戦見てたら遅くなってしまった。そこで、近場で気になるところにお散歩した。

今回は「旧道散歩」ではない、、、、、つもりだった(笑)

って書き出すと、このブログがしばらくお蔵入りだったことがばれるのだが。

 

自宅の最寄り駅は京王線の北野駅なのだが、この駅、中学2年の時からなにかと縁がある。その「なにかと」の部分は、いずれまたと言うことにしたいのだが、、、さわりだけ。

僕(の家族)は3歳の時にオヤジ方の実家のなにがしかのトラブルだかなんだかに巻き込まれて、地元市に越してきた。その後、大学1年まで住んでいた都営住宅は、高度経済成長期に東京のベッドタウンとして開発された「団地」である。その後、僕は大学のある「彩の国」でひとり暮らしを始めたのだが、今回の話はそのずっと前。中学2年の時の話である。

北野駅の近くにある中学に、毎週土曜日の午後、通っていたのである。地元市の「中学生科学教育センター」という、教育委員会主催の市内の中学校の「理科好きの生徒」を集めた勉強会に参加していたのだ、、、、本当に理科好きであったかどうかは、またの機会に譲る(笑)いや、この話をし出すと長くなるのだ。

 

今でこそ北野・長沼駅周辺は住宅街も増え、商業施設も一応は増えてきている。駅も高架になった。でもね、まだまだ「東京?」って感じの地域ではある。

それで、当時の北野駅は今の高架駅など想像だにできす、、、

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こんなのが、北野駅から高尾山口駅をのんびりと3両編成で往復していたのだ。あ、これは模型ですね(笑)↓ こちらが実車。

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これが2400系で、僕はこれよりも2600系の方が思い出深い。だだ、京王八王子方面との分岐駅が北野なのだけど、、、、、

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 各駅停車は、こちら。↑ 2000系が主流で、こんなのが新宿までトコトコ走っていたのだ。

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特急車と言えばこちら、5000系。晩年は各駅停車専用になっていたけどね。この子は丈夫な子で、今でも富士急行線など地方鉄道に譲渡されて活躍している車両も少なからずある。

これらの車両は、、、、、、

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こんな感じで、多摩動物公園駅に隣接の「京王レールランド」で余生を送っているのだが、、、、、、そうそう、展示室に僕の好きな。。

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2600系の模型もいらっしゃいました。残園ながら昭和53年の引退の日に、高尾山口まで見に行ったんだけど、記念切符も売り切れで、車両にも会えず、残念だった思い出がある。

小学校の5年~6年頃に高尾線の京王めじろ台駅南側に京王が開発していた新興住宅地の、、、八王子ってところは開発すると遺跡がもれなく出てくるところで、この電車、晩年の2600系に乗って「椚田遺跡」という考古学的に非常に重要な遺跡が発見されたのを見学に通った思い出の電車なのである。

で、その科学教育センターに通っていたころの京王八王子からの各駅停車が2010系。

 

さてと、前提の話が長くなったのはいつものこと。そんなこんなで、自宅からは離れていたのだけど、京王線の京王八王子ー北野、京王高尾線の北野ー京王めじろ台と、グリーンの旧型車両は青春の思い出なのだ。

 

さらに、、、、実はこんなのもある。

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京王高尾線の開通は1967年(昭和42年)の10月。僕が生まれた約1年後の話である。ところが、、、、、実は大正天皇の崩御により「多摩御陵」要するに天皇家のお墓ができたのだ。その後、大正天皇・皇后、昭和天皇・皇后も隣接の御陵に葬られ、それこそ歩いて30分もかからないところに住んでいた僕たち地元民は、「御陵さん」と呼んで親しんでいた。

そこで京王帝都電鉄(当時)としては多摩御陵の参詣客と、当時八王子市内を走っていた路面電車との接続を図って、高尾山への行楽客の獲得も狙って、北野ー多摩御陵前に「御陵線」を開通させたのだ。1931年(昭和6年)のことだ。まあ、その後の日中戦争から続く太平洋戦争の影響で、「戦時不要不急線」として1945年(1945年)1月、、、と言えば終戦の半年前に休業。免許は継続したものの、戦後も再開されずに廃線となったのだった。

実は、京王高尾線の一部は、その御陵線の廃線跡を利用して敷設したのだ。現在の北野ー山田間は、特に開通時、、、、現在の北野・長沼高架化が行われる前までは、御陵線の線路堤をそのまま利用したものだった。

実際、↑ 上の1965年頃の地形図を見ると、ほぼ正確に御陵線の廃線跡を辿ることができる。

ただ、「御陵線廃線跡散歩」は既にネット上の先輩諸氏が少なからず書いておられるし、僕は「小野路道散歩」が優先なので、、、、、、でも、地上駅時代の北野駅から、国鉄横浜線(JR横浜線)との立体交差に向かう坂道を、2600系がフルノッチで力行して上っていくのを運転台にかぶりついて見ていた思い出は消えるモノではなく、、、、ちょっと歩いてみようと思ったのだ。

 

北野駅から、高尾線に沿って、ちょっとだけね(笑)

 

まずは、航空写真と古地図を使って探索である。

写真の右端が京王線の北野駅。左右、ほぼ同じ範囲を並べてある。

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この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです

左が1972年の航空写真。1967年(昭和42年)の京王高尾線開通から5年が経過している。右は1992年の北野駅高架工事完成直後の航空写真。

赤丸の部分を比較するとよくわかるのだが、横浜線との交差地点までは高架化時に付け替えられ、立体交差を越えたあたりから御陵線の廃線跡を流用していることがわかる。

今回の散歩は、横浜線との交差の前後になにかを発見できないか、、、、、と言うことになる。

 

しかしまあ、40年も経ってから、まさか長沼や北野に住むことになるとは思わなかった(笑)

 

さてさて、どうなりますことやら。 

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