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努君的徒然草2014~

元在ベトナム日本語教師で、看護医療系受験予備校講師の努くんの公式ブログ

日々の行動、活動や、思い出話。 日本語教育や国語教育のこと。 鉄道や駅弁の記録。 ベトナムのことなどなど。 徒然に記します。

「旧道散歩、、、ちょっと寄り道 その2」~京王御陵線の話が、八王子の市内電車の話になっちまった、、の巻~

八王子 散策・散歩 追憶 鉄道

最近、このブログの機能を見直してみて、「予約投稿」をうまく使えるようになってきた。今まで書きかけで、お蔵入りだった記事を、少しずつ出していこうかと思う。

 

さて、京王御陵線の廃線跡を、京王高尾線が活用して開通した話の2回目である。前記事はこちら。 

shibasen.hatenablog.com

さてと、こんな資料がある。今日の話はここから。

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『京王線・井の頭線 むかし物語 総集編』という冊子。京王線の駅に広報誌として「あいぼり」というのが置いてあるのだが、その特別号。2003年12月の発行で、京王線開業90周年・井の頭線開業70年・京王の路線バス開業90周年を記念しての企画記事をまとめたものだ。

実は引っ越しの時にオヤジの荷物から出てきたモノで、自分ももっと状態がよいのを持っているのだけど、、、、しまい込んじゃった(笑)

京王のホームページにないかしらんと思ったんだけど、最近のバックナンバーしか掲載していない。残念。

ちなみに、ヤフオク!で検索してみたら、3,000円スタートで出品されてた。よし、本棚を家探しして出品、、、、、、って話が逸れた(笑)

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 京王八王子界隈を紹介したページに、「一面田園風景が広がっていた、北野・長沼周辺」なんて見出しがみえる。

先日、実はオヤジの蔵書だったはずで引っ越し中にもらっておいた、『八王子 長沼町・北野町わが街』(清水正之著・昭和60年の自費出版らしい)と言う本に、昭和36年(1961年)の長沼駅南口の写真が載っていた。

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実際、僕が小学校のころに京王線に乗ると、こんな風景だった覚えがある。

 

さて、話を地図に戻すのだが、左下の「昭和初期の八王子市街地中心部」の地図が興味深くて、中央線、横浜線、京王線は描かれているんだけど、八高線は開通前なのかな?1931年(昭和6年)に開通のはずなんだけど。

それで、、、、京王線の八王子駅は現在の駅の位置よりも、もっと先まで伸びていて、現在の甲州街道(昔、西東京ボールというボーリング場があった場所、、、、懐かしいね)に面して「東八王子駅」下の地図の①が設置されていた。あれれ?市内電車は?このころの八王子には、市内電車(路面電車)が走っていたはずなのだ。

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 ① 京王電車東八王子駅、、、、京王線の終点

 ② 「八王子電鉄」って書いてあるな。これが、1926年(大正15年=昭和元年)に設立された八王子電気鉄道株式会社の本社なのでしょう。この市内電車については、本題からズレちゃうからまたの機会にしたいんだけど、1926年(昭和4年)に浅川駅(現在のJR高尾駅)ー追分交差点(甲州街道と陣馬街道の分岐点)まで部分開業。免許そのものは八王子から所沢経由で浦和まで持っていた、、、、、のだけど、建設途中に資金不足で武蔵中央電気鉄道に買収されてしまった。ただし、両社の社長は同一人物というオチが付く(笑)

実際に高尾橋(現在の京王高尾線高尾山口駅の手前)ー八王子駅経由で京王線東八王子駅まで全線が開通したのは1932年(昭和7年)なんだけど、、、、、、東八王子までたどり着くまでの間に、同じ区間の乗合自動車(バス)運行開始、中央線の省線電車(今で言うと、E電、、これは死語だな、昔の国電)の浅川乗り入れ。あ、中央線が基本的に高尾止まりなのはこれが起源なのね。さらに、これがミソなんだけど、京王御陵線まで開通しちゃったので、路線が完全に被っちゃった市内電車の経営は最初から苦しく、1938年(昭和13年)には京王に買収されちゃったらしい。廃止は翌年。

僕が小学校、、、、いや中学時代にもまだあったと思うけど、甲州街道の追分ー高尾駅前あたりまで、この市内電車の架線支柱を利用した電信柱が残ってた、、、、この件はまたの機会に。

はい、本題に戻る。地図の③である。

実は、京王御陵線には市街地を避けて、直ぐ北側を浅川に沿って走る案(京王側の案)これは明らかに利用者像(京王側の本音)と利便性(京王側の口実)なんだけど、、、、と、もうひとつ、大きく南側を廻って走る、、、つまり当時何もなかった地域の開発も含めて希望した八王子市議会の案とがあったのだ。

「予定線」=地図の③として載せているのだから、京王はその気満々だったんでしょうな。つまり、この地図は京王が作成したモノなのではないだろうか、、、、と思う。この辺の事情はまたの機会に。

ひと言だけ言っとくと、今となっては京王と市議会側とどちらに先見の明があったのか判断付かない。でも、もしも北廻りで開通していたら、当時から人口が多かった地域を走ったので「戦時不要不急線」にはならず、現在では市の新宿まで直通できたのだから八王子の発展に大きく寄与していたんじゃないかな?

それと、もしも市内電車が残っていたら、、、と考えたら、楽しいよね。

あ、そうすると高尾山観光の交通手段がどうなっていたんだろう?だし、京王による「めじろ台の新興住宅地大開発」はどうなっていたのか、、、、と考えると、市議会案を後から有効活用した京王も、策士よのう(笑)

 

また長くなった。要するに何が言いたかったのかと言うと、八王子市議会側の提案が通って、現在の京王高尾線の一部を通る形で京王御陵線が開通したというわけなのである。

はあ、、、、つづく(笑)

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