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努君的徒然草2014~

元在ベトナム日本語教師で、看護医療系受験予備校講師の努くんの公式ブログ

日々の行動、活動や、思い出話。 日本語教育や国語教育のこと。 鉄道や駅弁の記録。 ベトナムのことなどなど。 徒然に記します。

五十而知天命~早く逝った友へ~

 「五十にして天命を知る」言うまでもなく『論語』為政編の言葉である。

夏には五十歳になろうという今年、久しぶりに年賀状を準備し、年越し蕎麦を食べ、雑煮を頂き、初詣に出かけた。恒例の高円寺の仲間との年越しには参加できなかったけれども。

 

ベトナム赴任に加え、オヤジの他界と実質2年間の喪に服す期間があったので、年賀状のやりとりは久しぶりのことである。残念ながらこの間に、不義理にしてしまった恩師、友人知己も多く、申し訳なく思う。逆に、こんな時代なのでネットの世界では多くのお付き合いが生まれている。ありがたいことである。

 

さて、「耳順」と言う言葉がある。『論語』の「六十而耳順」であるが、学校教育の世界、特に公立の初等教育、中等教育の学校では、一応の定年退職の年齢が六十歳と定められている。最近は定年後も任用のケースがあるようだけど、一応そういうことになっている。

 

早々に年賀状を頂いた高校時代の恩師から、決して軽くはない病気で入院され、教壇に復帰しているというメッセージをいただいた。この学年は「オリンピックの年の夏」に同窓会をしている。「今年は同窓会。再会が楽しみです」ともあり、お元気そうだなと一安心はしたものの、実は先生の高校時代の恩師が、僕の学部時代の恩師であるという、奇跡的なご縁もある。何年か前の一時帰国中に電話でお話ししたこともあったが、それ以来なので、京都のご自宅まで電話をしてみた。

お声は変わらず、お元気そうなのでよかった。「来年はもう定年だよ」「W氏は今年の春で定年だなあ」と。W先生は、バドミントン部の顧問でもあった。

そうか、僕たちの学年と、ちょうど十歳離れているのだからそうなるか。夏の再会が本当に楽しみだ。

 

さて、昨夕の話である。

帰宅して郵便受けをのぞくと、僕に返信してくださった賀状が何通か届いていた。

中学時代の恩師から「連絡ください」と携帯電話番号とともメッセージをいただいた。校長まで勤め上げ、昨春定年退職されたそうだ。

 

僕たちが中学生、高校生の時代に「若手の先生」だった恩師諸先生方が、ちょうど定年退職の時期を迎えているのだ。

 

そして、中学3年時の同級生からの封書があった。

このクラスは2000年の6月までは毎年のように同窓会を開いていた。その度には再会していたのだが、いつの間にかクラス会ということもなくなってしまった。ひとつには住んでいた団地の建て替え事業で、もともとの地元に住んでいた者はともかくとして、皆の連絡先の把握が難しくなってしまっている。そんな中で、彼とはメールだったり年賀状だったり、僕のHPの掲示板やブログに書き込んでくれることもあり、多少のお付き合いが続いていたのである。

日本人やベトナム人の看護師や介護士の卵を育てる僕に、やはり医療技術系の仕事に就いている彼とは、連絡を取り合う度に「お互い頑張ろうぜ!」と励まし合ったものだ。ただ、「疲れた」「休む時間がないんだ」という彼の言葉が気にはなっていた。

2度のベトナム赴任の際も、一度ずつ手紙をくれた。ダナンの時は、AKBのポストカードが入っていた。結構「筆まめ」な男だった。

だから、封書で届いた年賀状に、「彼らしいな」と思ったのだ。

ところが、、、、である。何となく違和感があって、よくよく差出人を確認してみると、彼のお姉様からであった。

 

彼は、3年前の元旦に、亡くなっていた。

 

毎年欠かさず、僕がベトナムにいるときでも自宅に届いていた年賀状が、途切れていたのは事実だ。昨春に僕が転居の通知とオヤジの他界を知らせた時も、返信がなかった。どうしたかな?と思っていたのは事実だった。でも、「疲れた」と言っていた彼が、無理が過ぎたのだろう突然逝ってしまったとは、思いも及ばなかった。

先生からのメッセージを見て、彼のこととはまた別に、直ぐに電話をするつもりになっていたのだけれど、まさか、同級生の訃報と同時届くとは、、、、案外、彼がつなげてくれたのかもわからないなと、思う。

頂いたお姉様からのお手紙や、先生の電話でのお話では、実は、彼の手帳や携帯電話、また手紙類の中には僕の名前や、中3時の担任である先生の連絡先が入っていたそうだ。僕はまだベトナム・ダナンに赴任中で、先生が当時の仲間たちに連絡先がわかる範囲で連絡し、何人かと供に彼を送ってくださったのだそうだ。

 

お姉様のお手紙には「お父様と同じ祥月命日になりますね。どうか一緒に弟のことも思い出してあげて下さい。」とあった。

僕は、四十九年の人生の中で、こんなにも、悲しみの言葉とともにご家族の愛情のこもった言葉を、真っ正面から受け止めた経験はない。

 

僕たちの中学校は「校内暴力」という言葉が生まれたころの、そのモデルのような学校であった。ドラマの金八先生の「腐ったミカン」のイメージそのままと言えば、想像できる方も多いだろうか。クラスには地元の総番長もいた。

そんな中で、彼の口癖は、当時の人気ドラマ名をもじって「ふぞろいの七組」であった。僕は「いや、意外とまとまっていたと思うぞ」「まあ、先生が俺たちの好きなようにやらせてくれたからなあ」と返していたのだが、彼は「ふぞろいの七組と言われた俺たちが、10回以上クラス会を続けたんだから、たいしたもんだぜ!」と言ったり書いたりしていた。

 

クラスからは、僕が知っている限りではあるが、二人の仲間が旅立ったことになる。

 

「六十にして耳順う」

『論語』の解釈にはいろいろな考え方があるのだが、「六十になって人の言葉が素直に聞けるようになった」とも解釈できる。

耳順を迎えた、迎える先生方は、僕の近況と、そんな悲しい報告も含めて「うん、うん、そうか。」と頷いてくださった。教育の最前線で、学問と教育とを追求してきたひとつの帰結点を迎えたことの、心の落ち着きなのだろうか。

 

「五十にして天命を知る」

『論語』を紐解くときに、いつも「新島先生は、どのように解釈されていたっけ?」と思って開く本がある。『論語 自由思想家孔丘 全訳と妙味』(新島淳良著・1984年・新地書房)である。学部時代に授業や私塾でお世話になった新島先生が遺されたものは、学問的にも思想的にも賛否有る。中国学の中側からだけでなく外側からも、賛否両論というか極論である。僕が一時期先生のお近くにいたことをよく思われない方も、少なくはない。まあ、僕のことはどうでも良い。

 

先生は「四十而不惑」と「五十而知天命」を次の様に解釈している。

 「迷いを断つ」と「天の命を知る」は、対になって、孔丘が師に学んだことをこんどはひとりで思索追求したことをのべている。「四十而不惑」と「五十而天命」は自然とそうなった、という消極的な状態を述べたのではなく、主体的・積極的に追求する語気がある。(中略)「不惑」は、もはや師なしわが道を行くという断念であると同時に、自由な判断ができるという自覚である。

三十代から四十代にかけて、僕は確かに恩師たちから学んだ歴史学、漢文学をベースにしつつも、ベトナムという新天地に分け入った。「ベトナム人の看護学生を、日本の看護学校に日本人と同じ入試を同じ条件で受験させ、合格させる」という発想は、前代未聞、奇想天外、かつ魅力的だった。新島先生の言葉を、いや、孔丘(孔子の本名)の言葉を拝借することが許されるのならば「自由な判断ができ」たのである。学生たち、先輩、友人知己に恵まれ、「三十路、そして四十路の青春」を謳歌した。

そして「ベトナムにおける看護の発展」「ベトナム人教師との、教育面での交流」といった、側面から寄与することを目標とした僕のベトナムでの活動は「ベトナムにおける日本式介護創設へのアプローチ」「ベトナム人日本語学習者に対する漢字教育の工夫」といった次のステップへと、少しずつではあるが昇華することができた。

絶対的なものである天との絶望的隔絶・緊張において人間を追求する、それが天の命を知る、であろう。孔丘は五十歳にして、自分の営為は天との格闘にほかならぬことを知り、格闘をはじめるのである。

つまり

不惑で自由な判断ができるようになった孔丘が、五十になって、その追求の対象を天にしぼったということであろう。

僕は新島先生の『論語』の解釈が好きだ。いつだったかネットでちょっと検索した時に、ある大学の中国哲学系の若い先生による「知天命」を「自分の限界を知る」との解釈があった。違うと思う。五十にして、遂に自分が追求する道を「天からの命」として悟るのである。そして、耳順に至る。自分の道の追求の結果、他の人の意見にも素直に耳を傾けることができるようになる。そういうことだと思う。

「自分の限界」を知っちゃうの?いやいや、むしろこれからですから。

 

志半ばで夭逝した仲間を思いつつ、「知命」を迎え、自らの道を追求していきたいとの思いを新たにしている。

 

ふと思い立って、中学校の卒業文集を広げてみた。

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我が3年7組中野学級の表紙は、彼が描いたイラストが飾っていることを思い出したからだ。

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彼は「絵がすごくうまい」と紹介されている。(ちなみに僕は「むっつり」となっている。なんでやねん!)

 

マコちゃん、俺、まだまだ、頑張ってみるよ。

安らかに!いずれ、また、そっちでな。

まだベトナムにいたころで、見送りに行けなくて、ごめん。

そうそう、「あいつ」がそっちにいただろ? 知らなかったと思うから、驚いたと思うけど、そういうことだ。思い出話でも、いや昼休みに校舎の前の狭い場所でやっていた、ビニールバットとボールでの野球、あれでもしていてくださいな。昇降口の屋根にボール打ち上げて、「おまえら、校庭の真ん中で、もっと広いところでやれよ!」ってよく中野先生に怒られたなあ。生徒会室の窓から俺がボール取りに行ったんだ。

卒業式前のソフトボール大会、1組との事実上の決勝戦、燃えたよなあ。負けちゃったけど。あと、体育の授業のサッカーと走り高跳び。「ふぞろいの7組」ってマコちゃんはよく言ってたけど、俺たち、やるときはやってたと思うぜ!あ、最後の合唱コンクールは除いてね(笑)

思い出は尽きないけど、続きはちょっと待っていてくれ。そっちでも、いつも笑顔で優しいマコちゃんでいてくれよ。

ありがとうな。

 

あ、俺のオヤジとオフクロに会ったら、よろしく伝えておいてくれ!(笑)

 

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