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努君的徒然草2014~

元在ベトナム日本語教師で、看護医療系受験予備校講師の努くんの公式ブログ

日々の行動、活動や、思い出話。 日本語教育や国語教育のこと。 鉄道や駅弁の記録。 ベトナムのことなどなど。 徒然に記します。

【布袋様への道】松姫通りをマッピーが行く?【七福神、その7】

世の中「ゆるキャラ」 が大はやり。地元・八王子も御多分に漏れず、

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松姫マッピー(世界一カワイイゆるキャラ) | 八王子まちナビ

八王子商工会議所の女性グループが設定したらしい。

iso-labo.com

他にもいろいろ居るんだって(笑)

その中でも、この「松姫マッピー」が、本日の主役となる(笑)

さて、八王子・七福神めぐりの続きである。本郷横丁の交差点で甲州街道(国道20号線)を越え、南へ直進する。

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交差点の角には、なぜか群馬銀行があるのだけど、なんで八王子に群銀なのかは不明。コジツケで関係を考えれば、「絹の道」へと続く、生糸産地でのつながりか。群馬銀行の前に「松姫通り」の道路標識がある。いつの間に、こんな通りの名前がついたんだ?

問題は、、、、「松姫通り」というネーミングなんだけど、ちょっと考察。

 

松姫という人は、八王子の女性の中では最も有名だと言っても過言ではない。(ユーミン、、、荒井、いや、松任谷由実は除く)今向かっている信松院の開基が松姫尼。墓所も信松院にある。

この女性、武田信玄の娘さんなのだが、織田信長に気に入られ、長男・織田信忠と婚約。典型的な政略結婚なのだが、会ったこともない二人は、今風にいう遠距離恋愛で手紙のやり取りをしながら愛を育んでいたらしい。ところが、、、、、

そもそも長篠の戦(天正3年・1575年)で織田信長・徳川家康の連合軍に敗れた武田勝頼軍。武田家はこりゃたまらんと、越後の上杉家や相模の北条家と同盟を組むことになる。これが、松姫のその後の数奇な運命を左右することになる。

まず、妹の菊姫が上杉景勝の正室として迎えられる。政略結婚とはいえ、彼女はどうやら幸せな人生だったようなのだけど、、、、、姉の松姫はねえ。

美濃を攻略した織田信長は徳川家康との同盟を組んで「上洛」京へ上る準備を始める。自動的に背後の守りということで、甲州の上杉との同盟が必要。はい!政略結婚でございます。元亀3年(1572年)まだ7歳だった松姫は、11歳の織田信忠と婚約。

ところが、早くも翌年、西に向かった武田信玄と徳川家康が対立、三方ヶ原の戦いでは織田信長が徳川家康に援軍を送り、あえなく織田・武田同盟は破談、婚約も破棄、、、、という説と、遠距離恋愛はやはりうまくいかず、その時すでに婚約は破棄されていたという説とがあるようだ。

更に翌年、父・武田信玄があっけなく世を去る。こうして、後ろ盾が全くいない状態になってしまったんですな、マッピー、、、、じゃなかった松姫。

兄・仁科盛信の高遠城(長野県伊那市)に身を寄せていたところ、嘗ての婚約者・織田信忠を大将とする武田討伐軍が甲斐・甲州に侵攻。松姫は兄の娘らを連れて甲州を抜け、現在の八王子市恩方の金照庵に身を隠すことになる。

この織田の甲斐侵攻で武田家は滅亡、さらに、、、、わずか3カ月後に織田信長・信忠親子も本能寺の変であえなく散ってしまったのである。

この間、まだ松姫に恋心を寄せていた信忠が迎えに来るという知らせが来て、松姫が甲州側まで駆けつけたが本人が来なかったという説もあるのだが、定かではない。定かではないが、その後の政変(本能寺の変)を考えると、会えなくてよかったんじゃないのかなあ。

松姫が身を隠していた金照庵は、要するに嘗て武田氏と同盟を組んでいた北条氏のお膝元。多少の庇護はあったのであろうけれども、、、、、今度は豊臣秀吉の小田原侵攻が始まる。北条氏の出城である八王子城、つまり甲州口の最後の拠点である。前田利家、更に嘗て「ともだちのともだちは。みなともだち」で武田氏と同じように同盟を組んでいたはずの上杉まで軍勢を送り込んできた。しかも、城主・北条氏照は「小田原評定」に出かけていて留守。八王子落城。その落城悲話は、残酷極まりない。そして「小田原評定」の結果、小田原城は無血開城。北条氏は滅亡。

この小田原攻めで、豊臣秀吉が徳川家康を「連れ小便」に誘い、「関東を差し上げる」といった話は有名である。その結果、江戸、今日の東京があるわけだ。

失意の松姫は、22歳の時に移り住んでいた同じ恩方の「心源院」というお寺から、出家して八王子市台町の御所水の草庵に移り住んだという。ここが、現在の信松院である。

さあ、マッピーとともに、布袋様と松姫様が待つ信松院への道を急ごう。 

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この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです

往時の信松院へのメインストリートからは、通りが一本ずれてるんですけどね。まあ、いいや(笑)

さて、この松姫通り、僕が高校生の頃はもっと細い道で、そう、例の「わかめ先輩」もこの道を歩いて通学していた記憶がある。僕が高校を卒業したころに、先輩の家で先輩の短大入学のお祝いと、高校を卒業したばかりの僕と、もうひとり先輩がかわいがっていた女の子(僕の同級生)を呼んで卒業祝いのパーティを開いてくれたことがあった。そうだよ、この辺りだ。

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この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです

右が1985年ごろ、当時の地形図。甲州街道と道の太さを比べればよくわかる。一方通行だったような気もするんだけど、記憶は定かでない。

特に踏切のあたりの変貌は、驚くばかりだ。

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 JR中央線を地下で潜って、立体交差。ふ〜む、、、、小さな踏切だったんだけどな。

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 前方の三角屋根が「八王子市民体育館」バドミントンの試合などで、中学、高校時代の懐かしい場所だ。

地元・八王子の町は中央線によって南北に分断されている。また北側には浅川が東西を貫いているので、中央線から浅川の間の細長い地域から近代化が始まったのだ。その結果、中央線の各駅は南北自由通路ができるのが遅れ、各踏切りを迂回せねばならず、鉄道も車も人も通行量が増えるにつれて「開かずの踏切」問題が多くなった。浅川の方も同じことで、橋の数が少なかったころは朝夕渋滞が激しかった。

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 へ〜、地下で立体交差なんだね〜。

僕は電車が来ないかなと思ってしばし佇んでいたんだけど、年配の女性が「信松院さんにお参りどすか?すぐ、そこですぅ。」な、なぜに京ことば?(笑)

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